長い二日間

2月14日

 

 

 

 

 

 

長い二日間だった。

 

上野駅に到着し、銀座線に乗り換える時。今日の業務内容を頭で整理しつつ、R指定のファーストテイクを聴いていた。

銀座線の改札に入ってすぐのスリーコインズで、定期的に買うお気に入りのピアスを2つレジに置いた。

SEAMOでも聞こうかと思いながら一旦YouTubeを停止してホームを歩いている時、名古屋に単身で住む父親から電話がかかってきた。

 

いわゆる、「嫌な予感」というものはまったくなかった。

いつもの調子で「ああ、ゆり?あのな」から始まった。酔っ払って娘に電話し、また鍵でも失くしたとか言い出すのかと思った次の瞬間。

 

 

 

 

「ママな、今日の朝、寝ながら死んじゃった。」

 

 

 

 

 

寝ながら死んじゃった?

寝ながら死ぬ?

 

 

寝ながら死ぬってなんだ?

 

 

 

 

 

「マジで言ってんの?」

 

 

 

 

 

瞬時に、最悪な死に方を想像した。

母親は20代の時、私を産む前。当時父と住んでいた部屋の4階のベランダから自殺未遂したことがあった。

 

もう死んでやる、と叫んで落ちた。後から父に聞いた話だったが、「あれは本当に飛び降りる気はなかった」らしい。

古いマンションで、「死んでやるのポーズ」をした母がベランダの柵につかまり体重を預けた瞬間に柵ごと倒れた。追いかけるのが遅かった父の視界からは柵と母が消え、衝撃音が響いた後に父が見た光景は、あり得ない方向に腰や足が曲がり倒れた母の姿だった。

 

一生車椅子の生活。今後自力で歩くことも子供を産むことも難しい、と医師が言ったほんの数年後、母は自ら歩けるようになり、そして私を産んだ。

奇跡だった。

 

「ああ、ああ。マジで言ってる。死後硬直が始まってるみたいで」

 

その後も父が何か色々喋っていたような気もするが全く覚えていない。

頭を支配していたのは、母と最後に話した日のことだった。

 

 

 

 

 

 

 

「5月に、友達の結婚式で大阪帰るから。」

 

仕事休みが少なく、出費も抑えたかった私は友達の結婚式を口実に大阪へ帰省することが多かった。

 

旦那と喧嘩した1月3日、ひとりで家の近くの神社へ初詣がてら出店でも見に行こうかと18時頃出かけた。歩いて向かうついでに母からの電話に折り返した。彼女とは、その日3度目の電話だった。

 

最近ハマっている、と話していたタコハイで母はすでに出来上がっていた。

リウマチに加えて自律神経失調症を患っており、話す内容が支離滅裂なことも多く、折り返すのが正直億劫だった。

 


「ママね、もうすぐ死ぬから。しゅうのことよろしくね」

 


私には「しゅうすけ」という3つ下の可愛い弟がいて、母と2人で実家に暮らしていた。まっすぐで、心が優しくて、思いやりのある、自閉症ちゃん。私のことを「姉上」と呼ぶ。

ちなみに、母のことは「母上」、父のことは「父上」。

私と6つ離れている末っ子の妹のことは「かな」と名前で呼んでいる。

 


ここ最近、母は「死ぬ」と言う回数が増えていた。

蛍光色に飾られた境内を見て回った。自分のつまみと、今まさに家で喧嘩の名残りを味わっている旦那へのお土産を選んでいる最中だった。


「そんなさ、すぐ死ぬとか言わないでよ。ゆりもしゅうもかなも、ママのこと大好きだから悲しい気持ちになるよ。」


「ええ!そうなの?ゆり、ママのこと好き?」


「当たり前でしょ。大好きだよ。愛してるんだよ。だからそんなこと言わないで。5月に友達の結婚式で大阪帰るから、その時ね」

 


普段は気恥ずかしさからあまり言わない言葉だったが、その時はすんなり口にしていた。不安定だった母を少しでも安心させたかった。


そっかあ、そうなんだ。大好きなんだ。そっかあ。と母は嬉しそうに私の言葉を繰り返した。そのあとは美味しいワインの選び方の話なんかをしてから、1時間程で電話を切った。声を聞いたのは、それが最後。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

父からの訃報を聞く最中、私は職場に向かう電車に乗り込んだ。

閉まるドアにもたれかかった瞬間、感情の整理ができず涙が溢れてきた。現実なのかどうかすらわからなかった。受け入れたくなかった。


何故、年末帰らなかったのか。お金がどうとか、仕事がどうとか、どうでもよかった。そればっかりだった。とりあえず旦那にママが死んだ、とだけLINEしたあとはなるべく母のことを考えないようにした。

 

職場に到着し、事情を説明した。旦那が車で迎えにきてくれて、すぐ家に戻り新幹線に乗る準備をした。

嫌がらせかと思うほど晴れていた。

 


新幹線のチケット、お花の手配、すべて旦那がやってくれた。感謝しかなかった。私はふらふらと後をついていくしか出来なかった。何も考えられない、というか、何も考えたくなかった。この期に及んで、私は脆く、大層弱っているふりをして、大切な人に甘えていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「羽曳野警察で検死をして、これからママを引き取ります。心臓発作でした。」

 


13時頃、父から連絡がきた。

心臓発作って具体的にどういうことだろう。

引き取るってことは、ママは家に戻ってくるのか。良かった。

 


自殺じゃなくて良かった。

 


母はここ2〜3年程、心身ともに調子が悪く仕事をしていなかった。収入がないため、父と弟が生活費を工面し、自分の身体障害者手当と弟の障害年金でほそぼそと暮らしていた。

母は家が大好きだった。人に気を遣ったり面倒なことが人一倍、大嫌いだった。ベッドに転がりお酒を飲みながらネトフリを観るのが至福だと言っていた。

そうか、帰ってこれるなら良かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「今日19時からお通夜。明日13時から葬式。家族のみで、両方自宅。」


14日の朝に死んで、当日の夜すぐにお通夜だった。

私は成人してから家族の不幸を経験したことがなかったため、これが「早い」という感覚がなかった。

これは父の、母への配慮だった。

事務的なことは早めに終わらせて、悲しみは時間かけて各々で噛み締める。早く送ってあげたかったんだと後から聞いた。

 


18時半、実家に到着した。父、弟、妹夫婦、父方のおばあちゃん、そして棺に入った母がいた。

 

私が実家に帰る度、母は自身の痛い足を引きずって玄関まで来て「おかえり〜!!!」と私に抱きついてきた。

昔は母の方が背が高かったが、最近はすっかり小さくなった母の体に合わせてしゃがんでハグするようになっていた。

 

棺の扉が開いていた。みんなの沈んだ表情を見た瞬間、私は明るく振る舞わなきゃ、と何故か場違いも甚だしいことを思ったため、棺で眠る母の顔をすぐ見ることができなかった。見た瞬間、自分がどうなってしまうかわからなかった。


一旦、別の部屋に旦那と入り、喪服に着替えた。旦那が泣いていた。実際何を考えて泣いているのかはわからなかったが、この人もママからの愛を受け取ってたんだな、よかった。そう思った。

 


家族だけでのお通夜は"滞りなく"終わった。お坊さんが読経し、色々ありがたいお話をしていた気がするが、その間ずっと母のことを考えていた。というより、「母がこの場にいたらどんなボケをするか」を考えていた。

 

母は笑ってはいけない場面が大好きだった。余計面白くなってしまい、不謹慎極まりないことを小声で私にだけ言った。

「お坊さんと木魚並べて、"どっちが木魚だ?"ってやってみて」

母も私も笑いのツボが小学生レベルのため、2人でふざけて笑ってはよく父に怒られていた。もう声が出ないというほど笑ったあとは、きっと飽きてしまって「はあ疲れた。あんた、失礼なことばっかり言ってないでママのビール取ってきて」と言うところまで想像した。

こういった場面で素直に泣くのが苦手だった。私と全く一緒だ。終始、頭の中で母と会話していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

お通夜の間、台所に立ちながら父のビールを注いだ。

父の痛みを考えた。想像ができなかった。40年近く一緒にいた、世界にたった1人の愛する人を失った。


父と母は一度離婚していた。私が中学生の頃だった。

父の浮気とDVが原因だ。母はひどく傷付き、心を病んでしまった。今思えば、父も病んでいたと思う。

当時小学生だった弟と妹には何も話さなかったが、大人びたふりをしている長女に、彼女は毎晩お酒を浴びながら愚痴をこぼした。

その流れで、深夜によく母とカラオケに行った。2人して泥酔してタクシーで帰宅し、私は次の日学校にも行かず、母とまた2人きりでだらだら遊び適当に過ごした。悪い親友、みたいな関係だった。2人して、その時の感情がすべてだった。


私は父が大嫌いだった。この世で1番大切な人を傷付けた父を許せなかった。

消えたらいいのに。直接は言わなかったものの、子供ながらに本気でそう思っていた。

 


私が東京に移住して4年、24歳の頃、父と母は再婚した。再婚した方が経済的に余裕ができると言っていた。ちょうど妹が大学に進学する年だった。

なんかよくわからなかったが、「ああ、許したんだ」と思った。私は依然として父を許すことができなかったが、母が決めたことならそれでよかった。


お通夜が終わり、少しずつ酔ってきた父は、ぽつりぽつり、私達兄妹に昔のことを話した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「ママのおばあちゃんは、すすきのの優秀な芸者さんだった」


母のお母さん、つまり私のおばあちゃんはその芸者さんの連れ子だった。ヤニカスで酒豪で、借金まみれのパチンカスだった。ドラえもんみたいな体型をしていたため自転車のペダルに足が届かず、上がったペダルを交互に蹴って漕ぐ人だった。私は産まれたての時に数回会ったあと、物心がつかない時にドラえもんのお葬式に列席した。当時小学生だった母をゲイバーに連れまわしていたらしい。ファンキーな人だった。


ドラえもんの借金を返すためだけに、母は10代からすすきのでホステスをしていた。そこで父と出会った。

アルバムで見たことがあるが若い頃の母は浅香唯にそっくりで、なんて可愛い人なんだと、父は一生懸命母を口説いた。一緒に棲むこと、そして夫婦になることをドラえもんは猛反対したが、最終的にじゃんけんで勝って結婚を許してもらった。

 


"死んでやる事件"のあと、子供を産むことは以ての外、普通の生活も諦めなければならないはずの母が1人で歩けるようになるまで回復したのは、父の献身的な介護と母の強い生命力のおかげだった。

母の腰と足には、人間の体にあるはずのないボルトが入っていた。常日頃、痛み止めや湿布を多用して生活をしていた。それでも「痛い」とよく言っていた。

 

私は、「痛い」を聞きすぎて、母の足が痛いことに"慣れて"しまっていた。


さっきも書いたが、子供を3人も産んだのは奇跡というより他なかった。ただ母にはドラえもんが遺してくれやがった大額の借金が何社分もあった。

父はこれ以上ないというくらい働いて、結果的にはほぼ父が返済したが、親の借金のためだけに若いうちから、というか子供の時から身も心も何もかもをボロボロにして働いた母は、子供達だけには自分と同じ思いをさせたくない、と借金のことを私達に隠し続けた。


父が話したことは、私だけがすべて母から聞いていた。弟と妹はショックな内容だったと思う。

 

母が、ハタチそこらで出会った男と結婚し、半年くらいで離婚したあとに父と出会って結婚したことも。

ちなみにその男となぜ別れたのか、母に聞いたことがあった。

 

「ポテチが食べたくて夜中に彼を起こしたら、喜んで買ってきたから」と言っていた。

 

意味不明。多分、他に理由があったんだと思う。いつか会えたら絶対に聞こう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

お通夜の間は、火を消してはいけないということを初めて知った。

私は勝手に寝ずの番をした。その間、母の顔を見ながら、2人で昔のようにおしゃべりをした。

 


もう、体痛くない?

ずっと足も腰も痛かったもんね。

ママの好きな東京ばなな買ってきたよ。

冷凍して食べるの好きだったね。

ビールまだある?

タバコ買ってこようか。

何か食べる?お皿のもの変えようか。

みんな来てくれて、会えて良かったね。

本当に親不孝者でごめんね。

ママ、今日はそばにいるからね。

 


父がすぐそばで小さく雑魚寝していたが、構わず話しかけていた。

安らかで、きれいな顔だった。「化粧なんかしなくていい、そのままがいい」という父の意向で、死化粧はしなかった。

赤ちゃんみたいにすやすや眠る母に、何度も「ママ」と呼びかけ、夜通し喋っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


翌日の15日、私は少し眠ってからお葬式の準備をしていた。

その間、かつての母の友人達がかわるがわる来てくれた。母と話したブラックな冗談話を面白おかしく、泣きながら全員が話してくれた。周りの人を大切にして、深く愛されていたことを知り、私も同じ生き方をしたいと強く思った。


13時からの葬儀が終わり、出棺する時は届いたたくさんのお花で母を彩った。

ふと、生前父が母の誕生日に花を贈っていたことを思い出した。照れ隠しからか本心か、「お金の方が嬉しい」と言っていたことも。多分本心だ。


母が運ばれている霊柩車のあとを、2台の車で追いかけた。母の車を父が運転し、父の車は旦那が運転してくれた。涙雨が降っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

14時過ぎに火葬場に到着し、棺が安置された。

棺の扉が開いており、それぞれお別れを伝えるよう促された。

 

末娘である妹は私と同様、東京で結婚相手と暮らしていた。究極のママっ子で、ママ大好き!ママ可愛い!早く会いたい!と毎日のようにLINEをしていたらしい。

こんな形で会うことになるなんて、思ってもなかったと思う。

嗚咽しながら感情をぶつけていた。「ママ大好き。またいつか会おうね。大好きだよ。」数えきれないほど、大好きを繰り返し伝えていた。

 

たった2人で暮らしていた弟は、ぼそぼそと話しかけていた。感謝だった。「〜してくれてありがとう」を、思いつく限り話していた。

昨日の朝、冷たくなった遺体を見つけたのは彼だった。


父はゆっくり顔を見て、「うん。」とだけ言った。今まで聞いたことない程、優しい声だった。


私は、「いってらっしゃい。」と言った。昨日散々独り占めしておしゃべりしてたから、ちょっとだけ遠慮した。

今まさに焼かれてしまう母を目前に、ずっと泣かないようにしていたが、旦那が肩に手を添えてくれた瞬間、感情のバランスが崩れたのがわかった。

 


ママが、火葬炉へ運ばれていく。

 


今まで味わったことのない感情だった。

苦しみか、喪失感か。思慕か、罪悪感か。憎しみか感謝なのか。怒りか。愛情か。

どれも当てはまる気がするし、どれでもない気もする。人生で一度も感じたことがない、言い表すことのできないものだった。

 


「行かないで」と、何度も呟いた。

 


いや、叫んでいたかもしれない。そんなことが言いたかったんじゃなかった。明るく見送るって決めていた。行かないで、なんて言ったら、母は心配でずっと成仏ができなくなってしまう。頭ではわかっていたのに。

最後にわがままを言いたくなってしまった。わがままを言ったら、聞いてくれるかもしれないと思った。

 

母は暑さにものすごく弱かった。冬でも半袖を着て「何ここ?!砂漠か?!」とよくぼやいていた。

いや、熱いわ!とか言いながら火葬炉から出てきてくれるんじゃないかと、この期に及んで私は自分の感情を優先した。私も火の中へ飛び込んでしまいたいと、向こうでずっと2人で居られたらと、愛する旦那の隣で、本気で思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「2時間後くらいに、お骨を拾いに来てください」

 


人間が骨だけの状態になるまで、2時間かかるらしい。私達は一旦家に戻った。

はやけに広く静かだった。当たり前だが、お棺が置かれていた場所は何もなくなっており、贈られた花束達だけがたくさん、きれいに咲いていた。

 


本当に、今、焼かれてるのか。

 


ドラえもんが火葬炉に向かう時、母が「焼肉」とニヤニヤしながら呟いたのを思い出した。

失礼極まりないのはどっちだろうか。母と2人で、ばしばし叩き合った。


父方のおばあちゃんが家のことをしてくれていた。ご飯の用意、掃除、買い物。ばあちゃんがいてくれて良かった。私達だけだと何もできなかった。

いつかばあちゃんも逝ってしまうのだろうか。もう何も考えたくなかった。もうこんなつらい思い、誰にも味わってほしくなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


2台の車で、火葬場に向かった。1回目は父の車に乗ったが、2回目は母の車に乗った。母が車で聴いていた音楽が流れていた。

KREVAだった。親子揃ってラップ大好きかよ。

道中、カラオケ店が見えた。そういえば学生の頃ママとよく2人で夜中にカラオケに行ったんだ、と父に話した。笑っていた。

 


「本当は姉上や、かなみたいに泣きたかったけど、私まで泣いたら母上が心配してしまうからと、我慢した」


車内で、弟が私に話した。どこまでも母を想う優しい子だ。より深く後悔し、反省した。私がしっかりしなければならないのに。最後まで親不孝だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2月15日、16時半に火葬場に到着した。心の準備もできていないのに、まんまるだった体が骨だけになった母に会うことになった。


「足から拾ってあげてください」と言われ、最初に目に映ったのはボルトだった。このボルトのせいで母は人生の半分以上、痛い体と共に過ごした。

 


遺品整理をしている時、たった1日で終わっている母の日記を見つけた。最近書いたであろうものだった。今日のご飯のメニューや、見たドラマの感想、過去の思い出。ほぼ悪口。

最後の行は、「早く痛い毎日からサヨナラしたい」と書いて終わっていた。


足に4つ、腰に1つ。ボルトはすべて父が拾った。きっと、どれほどしても足りない、懺悔だった。

骨壷に入った母と、みんなで家に帰った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


その日の晩は、父、弟、私達夫婦、妹夫婦で最寄駅の小料理屋に入った。


もともと行こうと思っていたお店が休業だったため、6人で商店街をうろつき見つけたお店だった。予約もせずの飛び込みで、カウンター6〜7席しかない小さなお店に小さなおばあちゃんが、ぽつんと小さなキッチンにひとりで佇んでいた。

「6人、入れる?」と父が言うと驚いた様子だったがあたたかく迎えてくれた。


生ビール4つと、ウーロン茶2つ。

お腹を空かせた男達が4人もいるため、ちょっと待ってね!と近くに住む息子さんを料理係として助っ人で呼んでくれた。私はその間キッチンに入っていいか聞き、ごめんね助かるわ、と冷えたジョッキを渡してくれたので、一瞬だけビールを注ぐお手伝いさんになった。


おばあちゃんは、私達の暗い表情や話題には触れず、にこにこ台所に立っていた。「座ってて良いんだよ。」とみんなが言った。おばあちゃんはありがとう、ありがとうと繰り返し言っていた。感謝したいのはこちらの方だった。思いがけず良いお店に出会えた。ママのおかげだ。

名古屋で勤めている会社を退職し、大阪で働くことになる父にとってこれから通える思い出の場所を母が作ってくれた。

 


「長い二日間だったね」

 


全員がそう感じていたと思う。飲みながら食べながら、各々のいろんな感情を話した。

最終的に残った父と私と旦那でよろしく飲んだ。帰り際、おばあちゃんに長生きしてね、体に気をつけて、と手を握って伝えた。伝えられて良かった。

 


帰り道に3人でデイリーに寄り、大量のおにぎりやサンドイッチに半値額を手書きしている最中のレジのお兄ちゃんに泥酔した父が絡んでいた。

 


「兄ちゃん、これは、全部廃棄になるのか。」


「はい。」


「兄ちゃんが持って帰って食べるのか。」


「全部は、厳しいっすね。」


「じゃあ、そこにあるやつ、全部くれ!!」


意気揚々と「俺が出す」と得意げにお会計を済ませて持って帰った。私は「なんでだろう、なんかダサいんだよなあ」と笑った。SDGs的にはかっこいいのか。いや、やっぱりなんかちょっとダサい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


家に着き、みんな父を囲んで飲み直していた。

この二日間で憔悴しているであろうみんなを気遣い、唐突に父が「もう、お前達寝なさい。ママと2人にしてくれ」と言ったため、各自寝床についたが私は残った。独りにさせられなかった。


母が入っている骨壷を抱きしめうずくまり、父は肩を震わせて泣いた。「恭子、恭子」と何度も母の名前を呼んだ。ただの一度も見たことのない姿だった。

父はもうボロボロだった。到底受け止めきれないし、受けて然るべきだったのかもしれないけど、父の抱えている苦しみをわけてほしかった。

きっと、紛れもなく、私も父を愛しているからだった。


2人で、声をあげて泣いた。

「もういいよ、ありがとう。ありがとうね。感謝しかない。ママと人生を歩んでくれてありがとう。色々あったけど、ママは幸せだったと思うよ。もうパパもゆっくり寝て。また明日からも生きていくんだからね。」

小さくうずくまった父の背中に手を添えて、"母の代わりに"感謝を伝えた。


「恭子と寝る」と子供みたいに泣きながら、パパはママと一緒にリビングで布団にくるまった。

相当疲れていたんだろうなあ。父は骨壷を抱きながら一瞬で眠りに落ちた。


私は2人のそばで、買ってもらった大量のおにぎりをひとりでほとんど食べた。

 


私が18〜19歳の頃、夜中に空腹で起きては炊飯器のお米をひとりで2〜3合平らげた。ママはそれを「また妖怪米食い女きた?!!」と笑っていた。そんなことを言う母も、朝ごはん用に自分で買ったパンを夜中に泥酔して平らげる癖があった。本人はまったく覚えていないため、私は「夢遊病パン食いババアきた」と煽り返し2人で笑っていた。本当に口が悪い娘だった。


おにぎりを食べながら、「妖怪米食い女が来たよ」と

父の腕の中で眠る母におにぎりを見せた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

母が永眠してから10日経ちました。

つい最近のことなのに、随分昔の出来事のように感じます。

 

周りのあたたかい人達に支えてもらい、美味しいものを食べさせてもらい、たまに唐突に泣いて旦那を困らせながら(困ってない、泣きたい時は泣くんだよ、と言ってくれる)、なんとか自分を保てています。

 

供養、という言葉の意味をネットで調べる日が来るなんて思いませんでした。

 

「人が共に養う」

 

故人と、遺された人、両方を共に養う気持ちだと

素敵な考えに出会いました。

 

死んだら何処へ行くのか。天国か地獄か。その他か。

 

亡くなった人には言葉がないから誰にもわからない。何処にいるのか、今どうなってるのかもわからない。「四十九日」という考えも、生きている私達の為だけにあるものかもしれない。

 

でも私達遺族ができることは、故人に対して自分を責めることでも悔やむことでもなく、これから故人が安心して眠ることができるように、強く逞しく、周りを目一杯大切にして、これからの人生を歩むことだと改めて思いました。

 

生きているとどうしても目先のことばかりに意識が向いてしまい、私は本質を見失ってばかりですが、母、父、兄妹、旦那、友達、職場の方々、みんなが軌道修正してくれながら私を生かしてくれています。

周りに感謝すると同時に、私も周りにそういう影響を与えられるような、優しくあたたかい、たまにブラックなジョークで笑いながら、ゆるく明るく幸せな人でありたいと強く思っています。

 

 

取り留めのない、だらだらと長い文章を読んでくださりありがとうございました。

人間は「忘れる」生き物なので、その時に感じた素直な感情を残しておきたくて書きました。

 

これを読んでくださった方にもきっと大切な人、守るべき人がいるかと思いますが

「いつでも会える」って大嘘なので、本当に大嘘なので。是非会える時に、伝えられる時に、これでもかってくらいに気持ちの交換をしてください。

 

全員が、強く逞しく明るく優しく健康に幸せに、愛に溢れる素敵な人生を歩めますように。

お正月の神社の出店が好き。

その場にいる人みんな、同じ屋台を見て通ってきた事実。厳かでチープな見た目と可愛くない価格設定。新年という特別な状況下での人混み。きちんと左右分かれる人達。たまに着物。ガキ共。

 

夜の屋台の方が好き。

 

みんな吐くほど苦しいことを経験して生きてきた上でチョコバナナを食べている。怪しい提灯と、カラースプレーが縁日を飾る。

 

売り切れた商品が惜しい。

廃棄されるであろうもの達が急に愛おしい。

フードロス無くなれば良いのにな。たまに嫌なことを思い出す。

 

熱がある時に見る夢に似たような、歯がコーティングされていく感覚。非現実。醒めることが前提の賑わい。

中身なくふらついていても認められる。「その場にいる人」として護られる。関係がなくなる。

 

なんとなく引いてしまうおみくじ。何故か大吉を望む浅はかさ。

 

「転居 良いでしょう。」

 

間に受けてしまう。引越そうかな。

敷金礼金ゼロとか書いてある物件、その気もないくせにちょっと見てしまう。間取り図から生活を想像したりする。

 

石造りの低い塀のようなものに缶酎ハイ置いて焼きそば分け合うカップルが風物詩となる。

マフラーにソース付いたりしてる。ウェットティッシュ渡したくなっちゃうなあ。持ってないけど。

 

神様、仏様に普段お世話になっているつもりはない。

「罰当たり」という言葉が存在するから、御礼をするために境内へ侵入する。

その瞬間だけ都合良く心が穏やかになる。

 

宗教や偶像は欠かせない拠り所である。人間は本当に弱い。

黄金期のモー娘。の歌詞、「人間は脆いもの」「みんな孤独である」とかが多い。つんくの傾向。

 

ねえ、缶ビール500円?500円って。

 

500円あればコンビニで4本買える。

とか言いながら買ってしまうの何故?

今この時でしか味わえない気がする。気がするのではなく、実際そうなのです。「風情」というものは。

 

経済を回す際に得られる快楽が堪らない。同時に存在意義も得ることができる。

 

そんなことを考えているうちに客足も減る。寂しいなあ。また来年。